樹齢60余年の薩摩つげに技を宿した櫛
大分県別府市で大正8年創業の別府つげ工芸。
かつては櫛やかんざしや根付などを中心に制作していましたが、洋装文化の普及に伴う需要の変化を受けて現在は「つげブラシ」に特化しています。
原材料の薩摩つげは成長が遅いのが特徴で、植えてから5年以上でもわずか小指ほどのサイズ。福岡の古処山では天然記念物になっており一切伐採できないほど非常に貴重な素材です。別府つげ工芸では、樹齢60年以上の時に育まれた木目の細かさと粘り強さ持つ、しなやかなつげの木材を使用。さらに、熊本県玉名産の天然椿油を染み込ませることで、木目から椿油がじんわり滲み出し、使うたびに潤いを与え艶のある髪に導きます。冬場は厄介な枝毛や切れ毛を引き起こす静電気を防ぎ、梅雨の時期には髪の広がりを抑えてくれる頼もしい味方です。
「時代は変わっても、つげの良さは変わらない」という信念のもと、現代に合わせた形でつげの魅力を届けています。
0.1mm以下に向きあう精緻な技
別府つげ工芸のブラシ制作は、まずつげの木の皮を剥いて、カットするところから始まります。樹齢が高く木目が詰まっている硬いつげは、切ると「キン」という特徴的な高音が響きます。自然素材なので、それぞれの節や木目をみながら、使える部分、使えない部分を全て目視で確認しながらの作業です。
ブラシの歯は円柱状の木から先端を少し細く、丸くして1本ずつ形を整えます。型はなく全て手作業で、職人の感覚と目だけを頼りに、髪に入り込みやすいよう先端にわずかなカーブをつけていきます。
『ブラシの歯先の形によって髪をといた時のあたり心地が全く変わってきます。少しでもズレると全く出来上がりが変わってしまうので、かなり神経を使って作らないといけない工程です。』と語る安藤さん。木材は湿気や気温で膨張・収縮するため、歯を背板に刺していく際にも、0.1ミリよりも細かい単位での調整を求められます。自然のものならではの色味や太さの違いを見極め、使い勝手と共に見た目の良さも追求しています。精密さを極めた職人技の連なのです。
左:整える前のブラシの歯。 中央:先端を細くする。 右:最後に頭皮に当たる部分を丸くする。
日々の製作での発見やお客様の要望に応え改良が重ねられ、この20年でブラシの歯は進化しました。これまでよりも更に、今はひとつひとつ丁寧に質を上げて作っていこうという思いがあり、時間がかかっても手間がかかっても使いやすいものを作ろうという精神の元、改良を続けています。』と安藤さん。削りすぎれば後戻りできないため、理想の最終地点を常に意識した細部にわたる計算と職人の精緻な技が不可欠です。
歯をブラシの背に差し込む工程。木によって色味や太さが微妙に異なるので、全体の見た目がチグハグにならいようにバランスを考えて差し込んでいく。
最後に歯を差し終えたブラシを椿油に2回つけ込む。椿油につけることで汚れ防止になる他、触り心地や色味も変化する。
美しい髪に導く使い手のための1本
英語教師や飲食業など全く異なる世界から結婚を機に工房に入った安藤さん。初めて目にしたつげブラシづくりは、「こんなに手間がかかるのか」と衝撃を受けたそうです。工房に入るまで馴染みがなかったからこそ客観的な視点で、つげブラシの良さを捉えられると言います。
『使えば使うほど変わっていく色や艶、深みに知らなかったからこそ心を動かされています。感動を自分自身が新鮮に感じられるからこそ皆さんにお伝えできると思います。』と安藤さん。
つげは、万葉の時代から使われ続けてきた素材で、現代まで残っているということは、確かな価値がある証です。かつて別府には多くのつげ工房があったものの、今では高齢化などによりわずか数軒に。続けていくことの難しさを感じながらも、残していきたいという原動力になっています。
別府つげ工芸では頭の形に沿いやすくするために歯の角度を扇状に広げたり、握力が弱い方のために柄の形を変えたりと、お客様の声に耳を傾け、職人と共に改良を重ね、使う方のことを第一に考えたもの作りを心がけています。
薩摩つげに椿油を染み込ませたブラシは、使うたびに髪に自然な艶を纏うことができ、切れ毛や乾燥が気になる方、雨の日に髪が広がってしまう方にも、それぞれの悩みに寄り添う1本になってくれることでしょう。
時間とともに、色が深まり、艶が増し、手に馴染んでゆく。使い手とともに歳月を重ねていくつげの美しさを、日々の暮らしの中で、感じてみませんか。
取材:新 拓也 写真:森下 大喜 文:下野 惠美子