日常を優美に彩る手作りレース
「バテンレース」とは、「ブレード」と呼ばれる糸を編んだテープで図柄の輪郭を描き、その内側にかがり縫いで様々な模様を施すレース製品です。ドイツのバッテンベルク発祥のレースで、明治時代に日本に伝わりました。繊細かつ優美でありながら、どこか懐かしみを感じさせるデザインも、バテンレースの大きな魅力です。「昔は大きなインテリア製品が多かったですね。特にテーブルセンターやアップライトピアノカバーが多かったです。今は日傘や洋服のつけ襟といったファッション性の高い物が人気となっています」。そう語る吉田節子さんは、幼い頃から母親の仕事を見て手伝いながら育ってきたそうです。
「バテンレースは材料からすべて手作りなので、ピアノカバーのように大きな製品は何ヶ月もかかりますが、丈夫にできています。1針1針丁寧な手作業ならではですね。60年前に作られた日傘も、こんなに繊細な透け感があるのに、いまだに破れていません。晴れた日にバテンレースの日傘をさすと、地面にレース柄の影が映って綺麗なんですよ。レースの魅力は、日常的に使っているときにふと感じる美しさだと思います」。
雪深い上越市で女性の内職として発展
それにしても、なぜドイツ発祥のバテンレースが上越市で生産されるようになったのでしょうか。19世紀後半、ブレードを使ったレース製品が西洋で人気となり、明治20年ごろ日本の横浜・神戸に渡来します。そこで神戸や横浜の貿易商が日本国内でバテンレースの生産者を募り、1890年頃に吉田さんの祖父が「吉田バテンレース」を創業したのが始まりでした。「創業当時は材料となるブレードは100%輸入していて、工場もミシンもなかったので畳の部屋に女性たちが集まって手縫いで生地付け作業を行っていたそうです。テーブルクロスやランチョンマットなどの製品は100%アメリカやヨーロッパに輸出していました。日本にはまだ洋風の生活習慣が根付いていなかったわけですから」。 その後、1900年頃、ブレードを国内生産始めたことで、この地域の一大産業となり大正時代には、バテンレースに携わる人が7000~8000人ほどいたそうです。 「あのころは町全体がバテンレースで潤っていました。外を歩けばブレード織機の音が聞こえてきたそうです。雪深い上越市の風土も、根気のいるバテンレースの作業に向いていたと思います。深い雪に閉ざされるこの地域では、冬になると男性は出稼ぎに出て、女性は内職でバテンレース作りの仕事をしながら家を守ってきたと聞いています」。
材料からデザインまで一貫して製作する強み
戦後の高度成長期には、人々の生活が洋風化したため全国のデパートに卸す国内需要が高まり上越のバテンレース業は繁栄します。ですが、中国製などの安価なレースが流通するようになると20余もあった同業者は廃業していきました。 なぜ、時代の荒波にも負けず耐え抜くことができたのか吉田節子さんはこう語ります。
「当店の強みは一貫生産です。材料であるブレードの製造、デザイン、制作、販売まで行っております。材料から製造することで、より質の高い商品づくりができるわけです。明治より伝承された繊細で緻密な技法が美しいバテンレース製品を生みだします。手仕事は手間がかかり大量生産ができないため、難しい時代になっていますが、労を厭わず丹念に製品づくりに向き合っていれば評価して頂ける時代でもあります。今ではインターネットで受注が来ます。企業とのコラボレーション、海外からの注文もあります。東京の銀座や日本橋で催事することもあって、たくさんのお客様にバテンレースの魅力をお伝えできることが何より嬉しいことです」。
一本の糸で編み込む手業を継承
2022年、バテンレースは新潟県の伝統工芸品に指定されました。現在は店舗の近くに江戸末期に建てられた上越市の文化財、旧今井 染物屋を工房とし、バテンレース体験、次世代に手業を継承するための勉強会も行われています。
「バテンレースの特徴は、ブレードを駆使した表現なんです。色や太さの違うブレードを使い分けます。ブレードの両端には「カタン糸(耳糸)」と呼ばれる糸が通り、この糸を引っ張ることでブレードが曲がります。丸く曲げたりとんがらせてみたり、このメリハリで輪郭がハッキリしたデザインを作って、その内側を糸でかがり縫うことで幾何学的な模様を作っていきます」。吉田さん のバテンレース教室には、老若男女問わず参加されていて、とても上達しているとのこと。 雪深い上越で守られてきた女性の手仕事は、現代でも多くの人々を魅了し続けています。
取材・撮影:山田 純也 文:西田 めい